昨日の続きです。
次の週のチャネラー養成講座基礎コースの野外ワークに参加した昨日と同じAさんのお話。
養成講座の野外セミナーは木と対話、地場を感じる、岩との対話、古代遺跡に行き土偶や土器をリーデイングします。今回は、地場を感じ木と対話するワークでした。
Aさん最初は元気で、木々と戯れていらしたのですが、「今の楽しいエネルギー場から、もっと深く細やかなエネルギー場に入ってみてください」とアドバイスしてから、木肌が気持ち悪く想えるようになり、そんな自分が嫌で耐えられないと言い始めました。
参加者全員木のエネルギーに添う体験ができたので、室内ワークに切り替えます。
Aさんの順番が来たとき、木肌が気持ち悪いと想う世界にもっと入ってもらうと、「自分自身の肌が気持ち悪い、どうしようもなく具合が悪くなってきました。」と言葉を出します。
読み込んでいると、肌はドロドロになり骨も溶けている感じです。
大やけどかも知れない、大きな病気かもしれない。・・・
隔離されているのを感じました。
本人は、気持ち悪さと絶望感・嫌悪感が起き、自分を直視できなくなって来たと言葉にしています。
夢も希望も無い、絶望だけの気持ちになり、体が動かなくなっていました。(本人談)
私が観たのは、顔、体中包帯で巻かれた大勢の患者さんの隔離病院の様子でした。
そのままでは、苦しいだけなので、何とかしようとアドバイスします。
固まっていたからだが少しずつ動き始め、Aさんは、自分の状態を仕方ないと諦めています。
絶望感は深くあります。
世間の人々から嫌がられ、迫害を受けています。
その悲しみは耐え難いのもでした。
家族も同じように迫害を受けていました。
その迫害に怒りを感じています。
その人生のその後を観るより、木の肌が気持ち悪いと感じた事と、深い絶望感と、自分が迫害を受けて、その迫害に対し怒っていた事との関係を読んでみます。
世間の見方に怒りを持った時、その世間の見方と同調することになり、醜いからこんなに迫害されるという想いが膨らんでいることに気づいてきました。
周りの患者さんも汚いとか醜いと想っていました。
自分の事は直視できません。(本人談)
だから、木肌のザラザラ感に醜さを感じ、ねじれに醜さを感じてしまい、嫌気がさし、吐き気までかんじたのでしょう。
それは神への冒涜です。木々の自然なねじれは醜さではありません。
人が火傷をし、ただれても、それは自然なこと。どんな状況で体に変化が起きてもそれは自然な事。
醜いという概念は自然界にはなく、人間が創った概念なのかもしれません。
傷ついていれば、猫や犬はなめて傷を癒そうとします。
けれども、人は観た目で判断し、違っている形を排除しようとします。
Aさんの話の戻しましょう。
Aさんは気づきました。
どんな状態でも生きているだけで感謝!だと気づきました。
自分の状態を認めても、周りの人は認めてくれないのだと。
それさえそれで良いのだと。
涙しながら、形は醜くても、自分の本質は醜くない。
いや、形も醜いのではなく、ただ、この状態だけだという事に気づいたのです。
どんな状況でも、生きているだけで感謝と気づいた時、喜びが溢れてきました。気持ち悪かった木が愛おしく、過去の変形していた自分の顔も輝いて観えたのでした。気持ち悪いと想っていた同じ病気の患者さんもイキイキと輝いて観えました。(本人談)
そう言えば、思い出しました。
Aさんが、木と対話していた時、ささくれが酷くなり、血が出始めていました。
体の記憶はどれだけの規模なのだろうと驚嘆します。
体だけではありません、人とは、知れば知るほど、膨張し、はるかかなたまで存在している神のように想えてきます。
意識だけが小さく固く狭い世界に閉じこもっていると。
ご本人に全文を確認もらい、感想を聞きました。
「2週にわたっての体験は、人生の根本が変わるほどの体験でした。ガラッと変わりました。変な言い方ですが、死に対しての感じも変わりました。私の人生、後悔が無くなった感じでしょうか・・・
どんな状態でも生きているだけで感謝だと心の奥から想えます。ありがとうございました。
そう言えば、ささくれが酷く、ザラザラだった手は綺麗になりました。」
今回のレポートは、Aさんの体験と変化を著わしました。
その体験に参加されたほかの参加者の一人一人にドラマは起きていました。
それぞれのドラマは死と言う幕が下りても続きます。
はるかかなたまで。