養成講座参加者(関東在住26歳会社員)より、自分史のレポートが届いた。
それを見ていて、淡々と感情を加えず、自分を見つめる姿勢に心打たれた。
自分の26歳当時を思うと、どれだけの違いだろうと感銘した。
彼らは、将来の不安の中育っている。
その中で自分の暗闇を見つめ、あがき、今の自分で生きる覚悟をしている。
メールより
ふみえ先生
こんばんは。
自分史の件、悩みましたが公開の件承知いたしました。
すごく恥ずかしいような/こそばゆいようなですがこれも一つの契機かも知れませんね。
「経験を独占するな」と上からも言われてしまいました。
自分の暗い部分を、前より受け入れられるようになったということでしょうか。
自分自身の自分史を改めて読返して、本当に自分が書いた文章かと疑っております(笑)
まったくの別人じゃないかと…
今、このタイミングで再びこの文章が目の前に現れることの意味を感じます。
過去の自分が「今、向き合ってますか?」と尋ねているようです。
余談ですが「他人に興味がない」と断言した、前回のセミナーの一週間後くらいに、
また少し自分自身の考え方に変化がありました。
「興味がない」のではなく、「理解できるはずがない」と思い込んでいたのでは?と気がつきました。
確かに完全に理解はできないが「感じ」、それを「表明し(質問し/確認し)」、
表明した内容について「反応を得る」ことはできることに思い至りました。
これもきっとチャネリングですよね!?
養成講座で教わったことを実世界でいろいろ試してみようと思います。
また、よろしくお願いします。
自分史より
自分史を再度作成する。
これらの課題に取り組む過程で、
「今」自分の人生に意味を与えるとしたら
どういう意味になるだろうかと考えた。
私の人生を一言で表現すると「穏やかさ」だ。
騒いでいるのはたいてい、私の心だけ。
あまり、大きな動きが有ったようには思わない。
…少し前まで、そう思っていた。
私は、私自身を檻に綴じ込め、一人憐憫に浸っていたのだ。
私の人生は悲惨だ。あいつが悪い。こいつが悪い。
全て人のせいにして生きてきた。
私の「穏やかさ」は闘いのあとの愉悦ではなく、
外界から目を背け、耳を塞ぎ、物陰に隠れることで得た
偽りの「穏やかさ」であった。
自分自身に対しても、周囲に対しても責任を持ってこなかった。
就学前
とにかく母親の影に隠れていた。
自分が何をしているのか。そんなこと意識もしなかったし考えもしなかった。
小学生のとき。周囲に当たり散らしていた。
少年野球に所属していたが、より良いプレイヤーになることを諦めていた。
中学生のときパソコン片手に引きこもった。とても狭い世界に…
受験から逃げた。進みたい道があったが。闘うことをしなかった。
好きな女の子に告白しなかった。一緒にいようとすることすら避けた。
高校生のときさらに引きこもった。
人との関わりから逃げた。
受験から逃げた。
大学生のとき、何かできると思って結局逃げ回っていた。遊び回っていた。
そんなもんだった。
社会人になってから、逃げ回っていた自分は何もできないことを知る。
ゴミみたいな自分自身からさらに逃げようと試みた。
私は臆病だ。
私は怠け者だ。
ここ数年殊にそう思う。
私は弱い。どうしようもないほどに、情けないほどに弱っちい。
振返れば、そんな自分自身が何よりも嫌いだった。
そんな自分が何よりも嫌いで、強くなりたいと願っていた。
今思う。願っているだけで、結局は逃げ回っていただけなのだ。
肉体を鍛えることは最初から諦めていた。
知識をつけて武装しようとした。それでも、武装しきれない自分がいた。
精神性を身につけて現実から超越しようとした。それでも、超越しきれない自分がいた。
私は弱い。
そんな自分の人生に「今」意味を与えよう。
私の人生の意味は「向き合う」こと。
たまには弱気になる日もあるだろう。私は弱い。
たまには逃げたくなる時もあるだろう。私は卑怯だ。
たまにはサボりたくなる時も有るだろう。私はずるい。
「向き合う」意味を知るために。私は弱い心/体/魂を携えてこの世に生を受けた。
「向き合う」ことで私は強い心/体/魂を再度獲得する。それが本来の自分であることを知るために。
「弱っちい」自分に向き合う。
「弱っちい」自分に還る。
そうすることで、少しだけ強く生きていける気がする。
以上
心の底からわいてきた言葉をそのまま書き付けているので、
私自身にとっては真実だと思います。
自分史という課題とは外れているかもしれません。
しかし、私にはとってもしっくりくるのです