母の事・父の事」カテゴリーアーカイブ

母の看取り

2月23日母が永眠しました。

亡くなる前日から39度の熱が1日続きそして。徐々に呼吸が浅くなり、息が途切れ始め、最期に大きく息を吸い向こう側に旅立ちました。

エネルギー全てを使い切り、生き切る姿を観せてもらいました。

その姿に感動し、精一杯生き切ると強く思い母に約束してお別れしたのです。

 

向こうに行く時のコンタクト

後は任せたよ!

 

今母を感じると、若くて穏やかで、フワリと広がったエネルギーになっておりますが、母だとわかります。穏やかに微笑みながら私がしていることを嬉しそうに観つめてくれます。生きていた時は苦しい事も多かったでしょうが、今感じる母のエネルギーは何のこだわりもなく、ただ穏やかな美しい母の存在感です。

今迄と違うのは、とても近くに母を感じる事です。

母の存在を感じながら、講座やセッションでチャネリングするのも楽しいです。生前は、私がしている事を否定はしないけれど、面白がる事もなく、距離を置いていましたが、亡くなるまえに光へ誘導したり、母が観ている世界を転写しながら言葉をかけていましたから、近くに感じるのだと思います。この時間もいずれ終わるでしょうから、今の感覚がありがたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

看取りこそチャネリング

母の危篤の知らせを受け、大至急で決算確定申告を昨日提出し、仕事の調整をして頂き、今米子空港から松江に向かうバスの中です。

少し体力を取り戻したようですが、母の命がある間に、もう少し母とのご縁に感謝し触れ合い語り会いたいと思います。

言葉を発することは出来ないでしょうが、こちらがキャッチして、魂の対話が出来ると思うと楽しみなのです。チャネリングで対話をするのです。

ありがとう、産んでくれて、育ててくれて!

 

幸せのゲートが開き、父は旅立った。

一昨日11月19日の夜、日付けが変わる頃女性の声が聞こえ、体が動き

「幸せのゲートを開く準備が出来た」の言葉の後、あまり記憶が無いけれど、天に向かって手を合わせ、両手を限界まで伸ばし体も限界まで伸ばしたようなきがする。

そのまま気持ちよく寝入ったので、あまり深く捉えていなかった。とても自然な流れだった。

翌朝、実家から電話が入り、父が朝6時に亡くなったと連絡が来た。

癌も、糖尿病も、肝炎も抱えていた父は、体調は常に悪く心穏やかでは無い日々を暮らしていたが、孫が病院に来てくれるのを楽しみにしていた。遠く離れている娘は、本当に会う時間が限られていたが、父の人生の話をたくさんの聞けたので、遺伝子の繋がりと、意識の繋がりは整えてもらったのだと思う。

悲しみよりも喜びの感覚を強く感じており、とてもありがたく、父とのお別れの瞬間は荘厳な何かを受け取れると予感して、新幹線、飛行機、タクシーを乗り継ぎ、黄泉の国奥出雲に向い、祖父とそっくりな顔になった父と再開した。

二人の姪っ子は、じいじはカッコ良かった!

優しくしてもらった。と嬉しい言葉をくれた。

良かったね、二人が居てくれてと、父に話しかけ、姪っ子達と、父の話に盛り上がる楽しい時間になった。

幸せのゲートが開かれると、生きている人々も、霊体存在も意識が変わりやすく、次元は現実に上がっていると実感した!

お父さんありがとう❗️

 

 

 

認知症になっても、もてなそうとする母

施設に入った母に逢いにやっと来れた。
実家から歩いて15分のところにある。

施設の中は、天井も高く全体がゆったりとした造りになっていた。
スタッフは担当チームが組まれていて、責任を持って生活のすべてを把握していてくれる。
総合病院と連携をとっていてくれて、本当にどのスタッフも暖かく声をかけてくれるので、どうしてこんなにも丁寧な対応をしてくれるのか聞いてみたら、「自分がしてほしいこと、自分の親にしてほしいことをしています。それをいつも全員が心がけています。」と話してくれた。働く方は厳しいこともあるだろうけれど、ありがたい。
母は穏やかな顔になっていた。
私の事もすぐに分かり、話は通じる。
椅子に座り食事をしてしばらくしてくると、目がうつろになって、段々話が通じなくなる。そして、ベットに戻り、すっと眠りにつく。
眠くてしょうがないという。

老いを見せてくれる。
自分の将来の姿を見せてくれる。
認知症になっても、それを否定されなければ、そう害ではない。
寝ていた母が突然起きて、「ご飯仕掛けてあるけんな、いろいろなもん仕掛けてあるけんな、大丈夫だぞ」と言う、「分かった、ありがとう」と答えると安心してまた眠った。
母は食の人で、いつも食卓を豊かにすることを考えて、みんなをもてなしてきた人だ。
作物を作り加工する。こんにゃくもイモから作り、奈良漬も瓜から作る。
沢山の創作料理を考案し、婦人会でみんなに教えてきた。

夢の中でもメニューは出来ているようだった。

夕食を私に食べさせようとしているのだ。

涙が出る。
いつも、人の事を思っている母は最期までそのまま変わらない。

母を母に選んだ自分を誇りに思えた。

大好き!!ありがとう!

生きる気力がなかった母が・・・

1月肋骨の骨折の見舞いに帰郷した時、89歳の母の本音を始めて聞いた。
(その時の様子はこちらから)
人の為に生きてきた母に、自分の為の選択をしてねと願いを伝えて帰宅した。
自分の為なのかは分からないが、退院の朝、脳梗塞になった。
幸い意識は戻ったが、生きる気力が無くなり、麻痺の影響で舌の感覚も戻っておらず、食事を嫌がるようになり、暗い顔をしていると連絡が入り、2月半ばに見舞いに行った。

5時間ご飯を食べる手伝いしたり、体をさすりながら、声をかけていても表情は暗い。体がだるいだろうし、生きることに希望が持てないのだと思う。

精一杯生きてきた母には笑って満足して最期を迎えてもらいたいと、願っているが…

心を残しながら病院を後にした。

その夜泊まるのは母のすぐ下の妹、働き者の伯母の家だった。

伯母と終戦の前年の話になった。伯母の目から見たらどんなだったのか。以前母から聞いた話、母が18歳の時、まず自分が熱病にかかり、九死に一生を得た。お花畑をみて、向こう側に知らない女の人がまだ来ちゃダメと言っていた。と

その数ヶ月後、広島の病院で従軍看護をしていた兄が感染症で亡くなる。その直後満州からやっと疎開してきた叔父が亡くなる。昭和20年終戦前

8月の終戦後父がジフテリアにかかり、入院する。ちょうど稲刈りの時期と重なり母親が必死で稲刈りを済ます。直後、突然亡くなる。50歳前後と言う。

母親の49日の法事の前、4歳の幼い弟が、ジフテリアにかかり入院する。その付き添いは、やっと歩けるようになっ18歳の母だったらしい。どれだけ辛かっただろうか。

伯母の話はまだ続く。

終戦後の混乱時で食べ物がない時、母親が収穫した稲を伯母とその妹と父親とで脱穀し、うるち米の餅を作り、法要で集まる人に振る舞うために用意した。お坊さんのお経が終わり、お白湯とお餅を配ろうと重箱を開けたら、空っぽだった。盗まれた!終戦後の大混乱で物がないからか。兄を亡くし、母を亡くし、必死の想いで作ったお餅を盗まれた悔しさと、愛されたいのに頼りにされるばかりと言う思いからの恨みを、伯母の言葉から感じた。

母は死に対しての恐怖、伯母はわずかに残っている恨み、二人で乗り越えて来た想いがつながれば、両方溶けるような気がした。

伯母にこの話を母としてくれないかと話す。

伯母も、姉にお礼を言いたいと

翌日、母にもう一度会いに行った。

 

暗い顔し昼食を食べようとしない母

伯母が「昭和20年、お母さんが死んだ年辛かったね。大変だったね!弟やんちゃで、看病大変だったね。たくさん助けてくれてありがとう。」

この言葉を聞いた母の表情が変わった!

 

帰る時

「死にゃあせんけんな」(死なないから)

と言った。

驚き、母の顔撫でて、大好き!

また帰るからと言った。

 

生きようとした母

そう言いながら小さな弟を看病していただろう!

死があまりにも近いから、そう言いながら生きてきたのだろう!

 

『生きようとして、生きるように死ぬ』

 

母は今も生き様を見せてくれる。

この母から人生をたくさん学び、愛することを教わっている。

感謝しきれない。愛が溢れ、溢れ、周りに広がる。

生きるべし     そう聞こえる。