自分の探求のテーマの一つ
「神が創られた人の本質を知りたい」これはいつも思う事です。
感情や、記憶、考える力これらは神が与えた力だと想っています。
でも、その道具をどう使うかは、人に託されているのだろうと。
感情や、記憶、脳の使い方、思考癖。これらが与えられたものだとすると、人によって差が大きすぎるのですが、今の自分の能力も自分が決めて自分に与えたのだとすると、マイナスに想っていた自分の能力も、必要あっての事だと想います。
道具はいろいろあって当たり前です。
私の道具はどんな具合かとお話すると、固有名詞が正確に記憶に残りにくいのです。
名前は漢字がさかさまになったり、ご本人が話していた内容の地名と名前がごっちゃになったり、
どんなにお会いしても、人と名前が一致しない事が多いです。
これって、記憶力が無いという事になります。
しかし、映像の記憶はかなりしっかりしており、また、今回体験していない人の体験や人の過去世の記憶さえ整理されて残っています。
一般的な教育や社会での評価を基準にすると、自分の持っているものを活かすことはできなかったでしょうが、自分を活かしたい、生かされたいという願いによって、人生の道を歩むことができました。
様々な体験をするのに、自分の持っているすべての力があっていいのです。
もし、今、自分のこれがなきゃ良いのにと否定する何かがあるのなら、それこそ、いかせる能力です。
逆にこれがあるから生きてこれたと思う力は、少し意識する事を手放していいのです。
たとえば、努力する力が強く、我慢する力があったからここまで来れたと想うのならば、もう努力を意識しなくとも、我慢することを意識しなくとも、いつでも、ほどほどの努力も我慢もしていますので、我慢をやめ、努力をやめてみましょう。
努力し、我慢に長けている人は、やり過ぎると、自分を痛めつけ、人にも押し付けてしまいます。手ごたえを求めますので。
それをやめると想うだけで、丁度良い加減になります。
たとえば、落ち着きが無く、人の話が聞きにくいというならば、どう自分が動いてしまうのか?
言葉をどう認識しているのか?ご自分を観察してください。
落ち着きがないというのは、多分、何かに反応しているのだと想います。
察知能力が高いのではないでしょうか?
どんなことをどんな風に察知しているのか、言葉に変換して、認識してみてください。
人の気持ちを感じ取ってしまうとか
次に起きる事が次から次へと襲ってくる感じとか
自分の心臓の鼓動や、大地の震動や、風や雲の動きを強く感じてしまうとか
それらは、意識をそこに向け、感じているものに対して安心すると、命を強く感じられる豊かな人である自分に気づけます。
他の評価を自分に当てはめないでください。
自分を評価するのではなく、ただ、自分を優しく認めるだけで良いのです。
地球人から評価するという力が消えたのならば、人類の在り方は全く違ったものになるだろうと想います。
その第一歩を歩もうと想って、自分の辞書から評価と言う概念を無くす作業を始めました。