神(真我)とは と言う大それたコンタクト

立秋の8月7日のセッション開始時、よろしくお願いいたしますとご挨拶をしながら手を合わせるのですが、その瞬間におりたコンタクトです。
セッション内容に入る前にこれを受け取りなさいと言う軽~い感じから始まりました。
段々私自身も訳が分からなくなりましたが、その時はこの内容を理解する時間が無く、セッション内容に入りました。その日やらなくてはいけない事がたくさんあったので、コンタクトを頂いたのに失礼だなと想いながら、お見通しでくださったのだろうと解釈しました。
終了後、テープ起こしをお願いし、ここにアップできました。
Iさんありがとうございました。

 

神(真我)とは、自分の「モト」へ近づいていく段階、段階、で啓示を与えてくれる存在です。
あなたが聞く 読む 見る、そのほとんどがあなたの「モト」に行く途中にある啓示なんです。
あなたの方向と違ったものは、あなたは見ていません。逆に言うと、あなたが見ているものは全て見た瞬間、私はこの方向をもっているんだと言う事です。
納得しようがしまいがあなたの方向に無いものは、あなたは見ません。
そう思っていくと今までの自分が得た情報、体験、などかなりの膨大なもので、これが全て、嫌なことも含めて、全てあなたの「モト」に向かう途中段階の事柄なのです。
「モト」にいくという事は、「モト」に向かって拡がるという事です。自分のずっと小さい時から加えて重ねてきた色々な読んだもの、見た映画、演劇、観賞物でもこれだけあります。それから人から聞いたこと、会った人、その人の体験を見てる、というようなことも含めていくと、自分の人生にはちょっとないなと思って外側に置いているようなものもあるでしょう、関係ないと。でもそれも含めて自分の「モト」にある方向に向かう。すると幾つもの線が出来ていく。まったく違うものもありますから、幾つにもできて収拾がつかなくなります。「大モト」は収拾がつかないほど拡大されたものです。それを今のあなたが理解しようと思う方が間違っています。それに気がつきますか?
今の自分が理解できないほど巨大なんだと。しかしそこに一歩近づくと あなた自身がフッと広がります。三歩近づくともっと広がります。今まで拒否してたことが、あなたが関係ないと思ってたことがとても身近になり “それは私自身のことだな” と。十歩も行ってみなさい。今の自分の人間としての持っている力よりも、十倍以上、もっと二十倍、三十倍の大きさになっている可能性がある。
そこが「モト」ではない。もっと巨大なのです。ですから心を開くこと、心を開くことによって、そして自由になること。これが自分自身になる旅なのです。心を狭めようとするものがあったなら、それはあなたの本質ではないのです。あなたの本質ではない。狭めようという力があったなら、ならばこの狭めようとするこのものを見ればいいのです。それは自分ではないと。自分の本質ではないものが、何かがこうしているのだと思えば、しっかりとそのものの本性を見極めればいいのです。