生きる気力がなかった母が・・・

1月肋骨の骨折の見舞いに帰郷した時、89歳の母の本音を始めて聞いた。
(その時の様子はこちらから)
人の為に生きてきた母に、自分の為の選択をしてねと願いを伝えて帰宅した。
自分の為なのかは分からないが、退院の朝、脳梗塞になった。
幸い意識は戻ったが、生きる気力が無くなり、麻痺の影響で舌の感覚も戻っておらず、食事を嫌がるようになり、暗い顔をしていると連絡が入り、2月半ばに見舞いに行った。

5時間ご飯を食べる手伝いしたり、体をさすりながら、声をかけていても表情は暗い。体がだるいだろうし、生きることに希望が持てないのだと思う。

精一杯生きてきた母には笑って満足して最期を迎えてもらいたいと、願っているが…

心を残しながら病院を後にした。

その夜泊まるのは母のすぐ下の妹、働き者の伯母の家だった。

伯母と終戦の前年の話になった。伯母の目から見たらどんなだったのか。以前母から聞いた話、母が18歳の時、まず自分が熱病にかかり、九死に一生を得た。お花畑をみて、向こう側に知らない女の人がまだ来ちゃダメと言っていた。と

その数ヶ月後、広島の病院で従軍看護をしていた兄が感染症で亡くなる。その直後満州からやっと疎開してきた叔父が亡くなる。昭和20年終戦前

8月の終戦後父がジフテリアにかかり、入院する。ちょうど稲刈りの時期と重なり母親が必死で稲刈りを済ます。直後、突然亡くなる。50歳前後と言う。

母親の49日の法事の前、4歳の幼い弟が、ジフテリアにかかり入院する。その付き添いは、やっと歩けるようになっ18歳の母だったらしい。どれだけ辛かっただろうか。

伯母の話はまだ続く。

終戦後の混乱時で食べ物がない時、母親が収穫した稲を伯母とその妹と父親とで脱穀し、うるち米の餅を作り、法要で集まる人に振る舞うために用意した。お坊さんのお経が終わり、お白湯とお餅を配ろうと重箱を開けたら、空っぽだった。盗まれた!終戦後の大混乱で物がないからか。兄を亡くし、母を亡くし、必死の想いで作ったお餅を盗まれた悔しさと、愛されたいのに頼りにされるばかりと言う思いからの恨みを、伯母の言葉から感じた。

母は死に対しての恐怖、伯母はわずかに残っている恨み、二人で乗り越えて来た想いがつながれば、両方溶けるような気がした。

伯母にこの話を母としてくれないかと話す。

伯母も、姉にお礼を言いたいと

翌日、母にもう一度会いに行った。

 

暗い顔し昼食を食べようとしない母

伯母が「昭和20年、お母さんが死んだ年辛かったね。大変だったね!弟やんちゃで、看病大変だったね。たくさん助けてくれてありがとう。」

この言葉を聞いた母の表情が変わった!

 

帰る時

「死にゃあせんけんな」(死なないから)

と言った。

驚き、母の顔撫でて、大好き!

また帰るからと言った。

 

生きようとした母

そう言いながら小さな弟を看病していただろう!

死があまりにも近いから、そう言いながら生きてきたのだろう!

 

『生きようとして、生きるように死ぬ』

 

母は今も生き様を見せてくれる。

この母から人生をたくさん学び、愛することを教わっている。

感謝しきれない。愛が溢れ、溢れ、周りに広がる。

生きるべし     そう聞こえる。

 

 

 

 

母の本音

昨日、ろっ骨を骨折して入院中の母に会いに帰郷しました。
昨日朝5時30分出発
その時間から電車は混んでいました。
皆さん本当にご苦労様です。

 

出雲市駅から、宍道で乗り換え、出雲三成まで

かわいい電車を乗り継いで、7時間かけたどり着きました。

 

母の本音を初めて聞き、ほろっとしながら、母の生きてきた人生を垣間見る貴重な時間5時間はあっという間に過ぎましたが、私の人生の記憶に残る貴重な時間となりました。

 

 

 

 

 

母の本音
「本当は人が苦手!」
緊張して生きていたのが分かりました。人に甘える事が出来ず、緊張して生きていた人生でした。だから人が苦手だと思っているのです。

誰が見ても社交的で、みんなのお世話をしてきた人です。
父の兄弟が8人いて、なおかつ本家でしたので、年がら年中叔父叔母が、子供や孫を連れて泊りに来ていた家でした。盆暮れは20人くらい泊り客がいたので、食べ物はもちろん、準備も大変、お布団も寝間着も、準備していました。布団部屋や、御膳食器の部屋がある、古い家の嫁をしながら、農協にも努め接客をして、地域の皆さんのお世話をしていた人でした。親戚に毎月野菜を送っていました。小さい時から観てきたので、ずらーっと10箱くらい並んだ荷物を見て、そうするもんなのだと思っていました。

「本当は人が苦手」の言葉、ほんとにびっくりしました。

 

今回、二面性があると言う事を、娘に言えたのは、きっと心が緩んだのだろうと思います。
やっと、人生の緊張から解放され始めたのだと!

 

母が18歳の時、終戦の年に入ってすぐ、熱病にかかり九死に一生を得て、3ヵ月闘病して完治したのです。
が、広島にいた兄が原爆の前に病院勤務中に病死し、神戸にいたおじさんが具合が悪くなり、母がいた実家に避難し亡くなったのです。
そして、終戦後、母親が、過労で亡くなりました。
1年間に3人です。

 

18歳の母の心を思うと、自分の心を大切にする時間も余裕もなく、一番下の4歳の弟の面倒も、日常もこなさなくてはいけない辛い日々、その中での終戦でした。

 

前回、帰郷した時、オバマ大統領の広島での演説を食い入るようにみていた母の姿が思いだされます。

 

その母は、認知症と言われています。

 

実際、記憶がかなり欠落しています。
今回私の事はすぐに分かりました。びっくりするくらいはっきり分かってくれたのですが、今日、昨日会った事を覚えているかは分かりません。
「おばあちゃん、忘れたい事が沢山あって、心がそれ望んだから、全部忘れるようになったのね。辛かったね。でも、良い人生だよね。
頑張ってきた人生だよね。私がしっかり覚えているから、大丈夫。安心して」と伝えました。

母や父を見ていると、生きる事は最期まで容易くないと実感できます。

遠い地で暮らしている娘に、帰ってくれとは言わない母です。

「おばあちゃん、誰かの為に生きなきゃと思わなくていいよ」と言葉にしました。
「わかったよ。でも生きていたら、また会おうね」
と言う母に、またね!と行って帰ってきました。

 

母を見て育ったので、兄が家を継ぐならば、遠くに行こうと決めていたのです。嫁の立場を考えると、小姑は近くにいない方が良いと小学生の時から決めていました。
母が、兄嫁に気を使い、良い姑を精一杯している姿は、娘としては心地よいものではありません。
けれども、家族は互いに気を使いながら暮らしていくものですから、母と兄嫁との絆は時間をかけ創られていきました。

感謝しています。
母が、もう逝っても良いのにいつお迎えが来るやらと、亡くなる前の祖父と同じことを言います。

最近、母親の夢を見る。懐かしい気持ちがいっぱいにになるんだととも言いました。そう遠くないのかなと思います。
ありがとうの気持ちがいっぱいになりました。

今回、元気だったので、ゆっくりと母の本音を聞くことが出来、幸せでした。

たくさんの想い

 

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母と作った豆御飯のお昼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭の草取りも伯母と一緒に終了です。

そうそう、台所の大掃除も完了!綺麗にすることで、親孝行もチョット出来ました。

いざ、東京へ

伯耆大山が見送ってくれました。

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認知症が進んだ母は、次に帰った時は、お前が分からないかも知れないと言いながら、手を握りしめていました。

 

母は毎日日記をつけています。綺麗な字でいつ誰が来たと書き記しています。 今回は、午前と午後も書いています。自分を失う不安から、 生きた証を残したいと。

気持ちを書くと良いのにと話すと、誰が見るか分からないからと、大事なことは話してくれました。母の歴史と、父の歴史を受け取る大切な時間になりました。

 

兄も一般病棟に移りひとまず落ち着きました。

 

たくさんの想いが募る帰郷になりましたが、念を残さず、全てを受け入れ、出来る事を精一杯の時間でした。

 

 

 

 

 

88歳の父の言葉

6月の誕生日で89歳になる父は、3月胆石を開腹手術で取り除きました。

お医者さんから、命の保証はありませんと言われた手術でした。

開腹手術の前、内視鏡での手術を受けたのですが、あまりの痛みで本人がのたうち回り中止になった経緯があります。
主治医からはもう一度内視鏡による手術をと言う事でしたが、「あんな痛い思いをするのなら切ったが良い」と父が開腹手術を望みました。
昨年大腸癌でかなり腸を切除しており、年齢から考えても、みんなが心配の中の手術でした。

手術時間6時間輸血1000ミリリットル かなり癒着していたので、その対処をしていたらしい。。。

けれども、お医者様も看護師さんも目を見張る驚異的な回復力で、周りの人々もびっくりです!!

口が悪くて我儘で、困った患者さん

周りの人に迷惑かけていました。

父の面倒は母にしかできません。

父は母の悪口は言いません。

母はひそかに父に困っているけれど、父の良い面を探してそこだけ見るようにして、ともに生きることを実践しています。

糖尿もあるけれども、父が食べたいものを作って、父の生きる喜び食べる喜びをずっと支えています。

父がこの間庭の草取りをしたと聞き、大丈夫と電話すると、力強い声で、「気力をしっかり持たにゃあだめだわ!生きられんわ!」と言っていました。

私より力強い声。。。

生への執着と母は言いますが・・・・。

父は母のためにも力強く生き、母を支えているのだとおもいます。

3月大たい骨骨折で杖をつきながらよたよたしている母のため!!

人生って凄い。

*     *      *     *     *

父は、5歳の時、お寺に修行に出されました。

本人は口減らしに出された!!と言い張っていましたが、5歳児に写経をさせるでしょうか?

お掃除より写経がとっても苦しく、和尚さまは、遊びに行こうとした小さな父を叩いたといいます。
英才教育です。
きっと父の能力を認めて、厳しくしてくださったのだなと想像できました。
でも父は、その時から勉強に対して恐怖心が強くなったのでしょう、小学校にいけない病弱な子供で、小学校もろくに出ていない、勉強もできないと、自己喪失の人生でした。恨みも強くありました。

その父が生きることに対し強い意志を持っているのはまさに今なのです。

あんな力強い父の声を聞くのは初めてです。

人生って、どんなドラマになっているのか、想像を超える筋書きが書かれているのだなと改めて見せつけられました

父の人生 誇れる人生です。

もっと生き様を見せていただきたいと願います。

 

 

母の看病

83歳の母が6月末ご先祖様の法事を終え、ホッとした後、畑に行く前転び、大腿骨頚部骨折で緊急入院!そして、手術。

先月に引き続き7月22日から帰郷し、看病と実家の台所方をお手伝いです。
年をとり、歩けなくなることほどの絶望はありません。
そのショックで、ちょっとウツっぽくなった母を短時間ですが支える事となりました。
頑張り屋の母は、リハビリも理論をあれこれ考えながら体を動かしていました。
人はどんな時にもその中で何かをつかみ、死を迎えるまで生きる!を実践している姿でした。

腰が曲がった母が丹精込めて作った野菜のほんの一部です。ネギ・長ナス・プチトマトオクラ・きゅうり・とうもろこし・大葉・ピーマンあまり綺麗だったので、写真にカシャリ

 

「植えた苗が大きくなってな、ばあちゃんは嬉しくて嬉しくて、もっとあれこれ植えよう、もっと肥料をやって元気に育てようと希望でいっぱいだったんだ!
畑が活き生きして、野菜が可愛くて、希望がいっぱいだった。そんな気持ちで畑に行く前に転んだ。もう歩けない。・・・・・感動のあとの地獄だよ」

母が愛いっぱい育てた野菜を腐らせたら申し訳ないと想い、畑に行ったら、あまりの美しさに私も感動しました。
こんなに綺麗に整った畑は本当に久しぶりに見たんです。
病院に行き、綺麗な畑にしたんだね。今日はネギと鶏肉の炒め煮と、なすとピーマンの煮付けと、大葉としそときゅうりとオクラのサラダを作ったよと話をし、ヒーリングしながら、母の命を味わいながら、感謝と敬意を手に託していました。

母の辛さを和らげることはそうできません。
けれども、母と娘でいることに心から感謝し、傍にいただけでそこに小さな奇跡はたくさん起きました。以前の母の笑いが戻りました。

ただただ、ありがたさだけです。
焦らず、怠けず、体を動かすことで、この人は今回を乗り越えるだろうと実感しました。
ただ、人生は何が起きるかはわかりません。
今持てる感謝と敬意を、全身でエネルギーに変え注ぐのみでした。後悔のないよう。
後のことは、兄夫婦にお願いして、千葉へ向いました。

 

そうスムーズには帰してもらえないことが起きました。
とってもドジで、とっても奇妙な出来事です。
突然ですが、「そりゃそうじゃ~~」と目玉おやじの声が聞こえてきます。
この続きは明日・・・・