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思った事を意識するって意外と難しい!

養成講座では5感を磨く訓練をします。
その為には、感じた事を想いに変換する前の感覚を言語化してもらいます。
それが意外と難しい。
色の中に入る。
それをやってみると言われても、入るって??という事になりますが、ちょっとしたコツが分かれば、色の世界に入る事はできます。
色でエネルギーが違いますので、手で触り、対比から色に入る事はできます。
その先です。
今感じている感覚を言葉にするのが意外と難しいのです。

優しいとか、威圧感とか、広がる世界という言葉の前に感じた感覚を言語化して、今感じているエネルギーと音を合わせる作業をします。

単純な音から入るのです。

意味のない音は、それだけで空間を創ってくれます。
感じている色と音の空間があってその空間で遊ぶことをします。

 

かなり大雑把に説明しているので、分かりにくいでしょうが、言葉に変換する前に、瞬間的に感じた状態があり、次に無意識にすぐに変換しているのです。

その瞬間を捉えるのです。
昨日のチャネラー養成講座基礎コース、皆さん初めての参加でこのワークを体験して頂きました。
これがチャネリングの基礎になります。
脳の使い方を変えます。

日常でも、今思った事を言語化し、今感じた事を言語化するよう意識をしていれば、メッセージが来たときも、直感が働いたときも、すぐに分かります。
自分の考えか、天から又は魂の奥から湧いた言葉の違いはすぐに分かります。
今日のメッセージ

自分がどう感じ
どう反応したか 観察する必要がある!

いい加減に目を覚まし
よくよく あたりを見回すと良い

目の前が同じ景色にしか観えないものたちや(時や)
何も観ようとしていないものたちには(時には)
命を使い天命を全うさせる力がなく
いずれ 終わりが来る
終わりの前に 目を開き 景色をみると
その美しさに感動するだろう

今日喫茶店でコーヒーを飲んでいる時、来たメッセージですが、数日前のように感じます。
私自身も、同じ景色ばかり見ているような気がしたので、今日は絵を画いて過ごすことにしました。
絵を4時間描きながら旅をしてきました。
かなり疲れましたが、物事を深く考えやすくなりました。

色々妄想して

アイデアも想いを巡らせる事も、一晩置いておこうと思いました。
そぐわない考えは消えていくでしょうし、ピッタリな考えは、明日も同じように浮かんでくるでしょうから。

 

 

 

 

新潟の皆様 ありがとうございました!

3\7  夕方千葉に帰って来ました。

新潟の皆様ありがとうございました。

新潟は今日も雪でしょうか?

7日午前中新潟市は雨、長岡は雪がぼたぼた降っていました。

トンネルを越えると抜けるような青空。

関東に帰ったと実感しました。

このような生活をさせて頂ける事は、12年前では考えられない事です。

心から感謝です。

 

どこに居ても、いつでも精一杯出来る限りの自分でいようと思います。

皆様よろしくお願いいたします!

(写真は15時30分の長岡と16時30分の上毛高原あたりです。)

「凄いなぁ…神の愛 」 たかまのブログより 

わっぽー縄文式チャネラー養成講座の各クラス終了時には、講評を皆様にお送りします。
この作業は、私にとっても重要で尚且つ重責です。
補講を入れ7ヶ月間ご本人の変化を辿り想い、そして今後の流れをリーデイングしながらメッセージを書きます。
また、コンタクトは、ご本人のサポートをしているエネルギーソース(神さま)からのメッセージを受け取る為、私自身の私感は排除しなければいけません。
今回のように、お送りしてから、数か月後、または数年後ご覧になります。
その時点でも、納得して腑に落ちるようなコンタクトは、人の技では出来ないのです。
私感を取り除き、神からの言葉を降ろし書く。
今のご本人、未来のご本人、に対してのメッセージです。
自分に課したシステムですが、これによって、私自身も成長せねばならないのです。
たかまさんのブログで前回8期(2016.1~7)の書評(2016年8月制作)をご感想とメともにアップして頂きました。
どうぞ読んでみてください。

 

NEW !
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ふと見た
前回8期のアドバンスの講評が今の状態を言っていた
「事がらを観つめる心の目が深くなり厳しくなり生きる意味と責任を持つ力が増しました。
人に向かうのではなく自分に向かうと素直な想いがある事に気づきます
それが大切なのです
素直な想い、たとえそれが弱気な想いだとしても弱気が沸くのが生きてる人なのです
その想いを受け入れ他の人にも弱さを見せる強さを持った時もっと大きくなるでしょう
忍耐力を持って人を認め責任感を持った寛容な人に」
「怒った心は生きる力となり、悲しみは慈しみの力となり、微かな絶望は希望となり、心で広がり、体を覆い、場にも広がる」
その場を作りたい
だから選んでいる
それを学ぶ為に出来事が起きている
「彩豊かなステージが貴方の生きる場所
いつでも沢山の彩を囲まれ
一つ一つを愛で慈しみ、育てるのが貴方の生きる場所」
神がやらせたい事
私がやりたい事
それに向かってちゃんと進んでいた
うん
大丈夫
ホントにそう思えた
今からまた頑張っていきます
皆様これからもよろしくお願いします
たかまさんありがとうございました。
つき進んでいきましょう。
9期も終わり10期に入りました。
9期の講評いったん出しましたが、私の車輪がしっくりはまっていないと気づき、もう一度コンタクトを取り直す事にしました。
新潟アドバンスの皆様もう少しお待ちください。
桜が咲くまでにはお手元に届けますので!

新潟Heart Window Art

Heart  Window  Art 長岡、新津、下越病院作品です。

自分と向き合う時間であり、奥にある物を引き出す時間。みんな時間いっぱいタップリと集中して自分と対話していました。ヘロヘロになっても、残るのは疲れではなく、満足です。

自分のたけをぶつける瞬間でした!

 

生きる気力がなかった母が・・・

1月肋骨の骨折の見舞いに帰郷した時、89歳の母の本音を始めて聞いた。
(その時の様子はこちらから)
人の為に生きてきた母に、自分の為の選択をしてねと願いを伝えて帰宅した。
自分の為なのかは分からないが、退院の朝、脳梗塞になった。
幸い意識は戻ったが、生きる気力が無くなり、麻痺の影響で舌の感覚も戻っておらず、食事を嫌がるようになり、暗い顔をしていると連絡が入り、2月半ばに見舞いに行った。

5時間ご飯を食べる手伝いしたり、体をさすりながら、声をかけていても表情は暗い。体がだるいだろうし、生きることに希望が持てないのだと思う。

精一杯生きてきた母には笑って満足して最期を迎えてもらいたいと、願っているが…

心を残しながら病院を後にした。

その夜泊まるのは母のすぐ下の妹、働き者の伯母の家だった。

伯母と終戦の前年の話になった。伯母の目から見たらどんなだったのか。以前母から聞いた話、母が18歳の時、まず自分が熱病にかかり、九死に一生を得た。お花畑をみて、向こう側に知らない女の人がまだ来ちゃダメと言っていた。と

その数ヶ月後、広島の病院で従軍看護をしていた兄が感染症で亡くなる。その直後満州からやっと疎開してきた叔父が亡くなる。昭和20年終戦前

8月の終戦後父がジフテリアにかかり、入院する。ちょうど稲刈りの時期と重なり母親が必死で稲刈りを済ます。直後、突然亡くなる。50歳前後と言う。

母親の49日の法事の前、4歳の幼い弟が、ジフテリアにかかり入院する。その付き添いは、やっと歩けるようになっ18歳の母だったらしい。どれだけ辛かっただろうか。

伯母の話はまだ続く。

終戦後の混乱時で食べ物がない時、母親が収穫した稲を伯母とその妹と父親とで脱穀し、うるち米の餅を作り、法要で集まる人に振る舞うために用意した。お坊さんのお経が終わり、お白湯とお餅を配ろうと重箱を開けたら、空っぽだった。盗まれた!終戦後の大混乱で物がないからか。兄を亡くし、母を亡くし、必死の想いで作ったお餅を盗まれた悔しさと、愛されたいのに頼りにされるばかりと言う思いからの恨みを、伯母の言葉から感じた。

母は死に対しての恐怖、伯母はわずかに残っている恨み、二人で乗り越えて来た想いがつながれば、両方溶けるような気がした。

伯母にこの話を母としてくれないかと話す。

伯母も、姉にお礼を言いたいと

翌日、母にもう一度会いに行った。

 

暗い顔し昼食を食べようとしない母

伯母が「昭和20年、お母さんが死んだ年辛かったね。大変だったね!弟やんちゃで、看病大変だったね。たくさん助けてくれてありがとう。」

この言葉を聞いた母の表情が変わった!

 

帰る時

「死にゃあせんけんな」(死なないから)

と言った。

驚き、母の顔撫でて、大好き!

また帰るからと言った。

 

生きようとした母

そう言いながら小さな弟を看病していただろう!

死があまりにも近いから、そう言いながら生きてきたのだろう!

 

『生きようとして、生きるように死ぬ』

 

母は今も生き様を見せてくれる。

この母から人生をたくさん学び、愛することを教わっている。

感謝しきれない。愛が溢れ、溢れ、周りに広がる。

生きるべし     そう聞こえる。